目を開けると、ぼんやりとした視界内に白い天井が見えた。 寄宿舎の自室とは明らかに違う、大型の蛍光灯が備え付けられた見知らぬ天井。 自分はいつの間にこんな場所にいるのだろう、と上手く回らない頭で考えていた悠は、隣からシャク、シャクと何かみずみずしいものを切る音がする事に気付いた。 ゆっくりと顔だけをその方向に向けると。 「……」 兄が無言ながらも一心不乱にリンゴの皮を剥いていた。 そして小さくカットされたそれを真横に座った葵が当たり前のように、口の中に放り込んでいく。 「それにしても起きないわよねぇ……。よっぽど疲れてたのかしら」 『かもな。……それとなんでお前が食ってるんだ』 「別にいいじゃない。在庫はまだまだ残ってるし、放っておくと色が変わっちゃうじゃない」 一口サイズと言うには少し大きめに切られたリンゴが皿の上に置かれ、そこにすぐさま葵の手が伸びる。まるで流れ作業のようにリンゴが置かれては取られていく。 ……。 そこで悠はため息をつきながら、ベッドから身を起こした。 室内に響いていたリンゴを切る音と葵の咀嚼音が、同時に止まった。 「悠! 良かった! 心配してたんだから!」 すぐさま抱き付いてきた葵に、有無を言わさず口の中に一切れのリンゴを突っ込まれる。 「……。ここは?」 顔をしかめながら飲み込み、彼女を強引に引きはがす。 カットしたリンゴを皿の上に並べていた白斗が答えた。 「駅近くの病院。昨日の真夜中に公園で倒れてたお前を光輝と俺が見つけて、秋津さんに連絡したらすぐに手配してくれた」 「……私が公園で倒れてた?」 「……。覚えてないのか?」 相手が驚いたような表情を浮かべたのに合わせ、悠は首を縦に振った。 「何も思い出せない。光輝と時雨と買い物に行った後、具合が悪かったから部屋で横になったところまでは覚えてる。でも……」 『だが、その後は記憶が無い、と?』 無言で首を縦に振る。 「ねぇ、これ見ても何か思い出さない? このメールと地図」 ふと葵が差し出してきた、彼女の携帯電話を覗き込む。 「昨日の夜、アンタからこれが送られてきたの」 「……ごめん、全然思い出せそうにない」 そう言い、小さく息を吐く。 「変よねぇ。現物はちゃんとここにあるのに。……ほら、これこれ」 葵が首を傾げつつ、枕元に置かれていた悠の携帯電話を勝手に手に取ってメールの送信ボックスを開いた。 『……お前は爆睡していてそもそもメールに気付いていなかったけどな』 「そっ、それを言うならクレアだって気付かなかったじゃない!」 『私も宙に浮いたまま寝ているわけじゃない。端的に言うと意識ごと一時的に消えているんだ。……まあ何にせよ、今回は他の二人が気付いたんだ。それで結果オーライだ』 「……」 白斗から渡されたコップに注がれたスポーツ飲料水を一気に飲み干し、頭に手を当てる。 それでも一向に思い出せなかった。夜の公園に向かった事も、倒れていた事も、メールを送信した事も。 『気にするな。倒れた時に頭でも打って、記憶が飛んでいるんだろう』 「そう、かもしれない」 ふとそこで、一人だけ姿が見えない人物がいる事に気付いた。 「光輝は」 『ああ、アイツなら学校へ行ったぞ。二人とも休むと、時雨……だったか、アイツに怪しまれる、とな』 「……学校?」 背後のカーテンを引き開けて窓から外を見上げると、まだ高い位置にある太陽が見えた。 『まだ言っていなかったな。お前が寝ていたのは約半日と言ったところ、今は翌日の午後二時過ぎだ』 「別に、普通に過ごしていてくれて良かったのに。……もしかして、葵も兄さんも私のこれにかこつけて休めるとか思ってたりは」 「今日はゴールデンウィーク明けの全校朝礼がある日で、授業もそこまで無いし、」 視線をそらし、即座にリンゴを剥く作業に戻った兄が持つ果物ナイフの切っ先が、彼の人差し指を傷つけた。そこから流れ出た赤い血が薄く黄色いリンゴの果肉を染めていく。 「……っ」 彼は一瞬だけ顔をしかめると、すぐにリンゴを切り分ける作業を続行する。 「……貸して。無理しなくていいから」 ため息をつき、ナイフと皿へと手を伸ばす。 『私がやろう。いくらなんでも、入院患者には任せられないしな。葵、いいな?』 そこでようやく、自分が置かれている境遇を思い出した。 そして、葵と入れ替わったクレアが丁寧な手つきで果物の皮を薄く剥き始める。 枕元に置かれたフルーツバスケットに山のように積まれたリンゴは、一向に減る気配を見せなかった。 いつの間にか着替えさせられていた病院の水色の寝巻にどこか慣れなさを感じながら、悠はそっと横になった。 「くそっ、何だってんだよ……」 誰へともなく悪態をつきながら、光輝は悠が運び込まれた病院へと足早に向かっていた。 学校ではわざといつも以上に明るく振る舞うように努めて、友人達に気づかれないように注意を払い、そして時雨に対しては悠が風邪を引いたと無理やり言いくるめ、見舞いに来ようとする彼女を何とか振り切ったのがつい先ほどの事。 「一応は元気そうだから気にしなくていいって、さっき葵からメール来てたけどなぁ……」 一向に変わる気配を見せない横断歩道の信号機にもどかしさを感じつつ、十数時間前にも訪れた病院の場所を頭の中で何度も何度も確認する。 昨晩、倒れている悠を見つけた後の事はあまりよく覚えていなかった。 記憶に残っているのは、パニックを起こしかけている自身の隣で、白斗がすぐにどこかへと電話をかけていた事くらい。 もしあの時無駄に落ち着いている彼がいなければ、自分には何が出来ていたのだろうかと光輝は思った。 「俺も兄貴や悠見習って、もうちっと落ち着きを……。……無理かぁ」 ぶつくさつぶやきつつ、駅近くの路地を足早に通り抜けると、病院が視界の奥に見えてきた。 閑散とした待合室の脇を通り抜けて階段を駆け上がり、言われた通りに五階の個人病棟内の一室へと向かう。 そして。 「悠、大丈夫か!?」 勢いよく病室の扉を開けると、そこにいたのは。 「……あ」 部屋に飛び込むなり、ベッド脇に立っている彼女と目が合った。 ただし、下着姿の。 上下とも少し薄めの水色で統一された無地の下着姿の彼女は、突然の入室者にも大して興味が無さそうにタオルで身体を拭き続けている。 「入るなら入って。あと、寒いから扉閉めて」 それから小物入れの上に置かれた、湯気が立つ洗面器にタオルを浸した。 先ほどまで着ていたらしき寝巻はベッドの上に丁寧に畳まれて置かれていて、その隣では替えの寝巻を手にした葵とクレアが凍りついていた。 絞ったタオルでそのまま自身の身体を拭き続ける悠に、光輝は苦笑い気味に恐る恐る問いかける。 「あー、悠さん……お取り込み中でした?」 「寝汗かいたから」 やはりさほど興味は無さそうにつぶやくようにそう言い、替えの寝巻を手にしまるでハンガーか何かのように動かないままの葵から受け取って袖を通した。 そこでようやく、クレアがため息をついた。 『……光輝、入る時はノックくらいしような……?』 「……イエッサー」 その途端、葵の瞳が音を立てて光った。ような気がした。 「ほら、悠ってば今一生消えない心の傷を負ったわよね!? 慰謝料とか好きなだけ取っていいのよ!? 何だったら弁護士やってあげるわ! 顔は笑ってても心は泣いてるの、あたしには分かるんだから!」 「別に、どうでもいい」 彼女はポツリとそう言うと、ベッドの上に腰かける。 「見られても何かが減るわけじゃないから」 『……お前、そこまで羞恥心ないのは色々とどうかと思うぞ……?』 「さぁ。特に気にした事もないけど」 嘆息する幽霊を気にもせず、今しがた着替えたばかりの寝巻の襟元を整える。 ふとそこで光輝の背後で扉をノックする音が聞こえた。 「入っていいわよ。もう服は着たから」 悠の代わりに葵が答えると扉が開き、そこには数本のペットボトルを抱え込んだ白斗が立っていた。 「あれ、兄貴、それは?」 「一階の売店で買ってきた。とりあえず人数分。悠は……お茶で良かったっけか」 そう言い、ベッド横の小物入れの上に一本ずつ並べていく。 「へぇ、珍しく気が利くじゃない」 炭酸系の清涼飲料水に葵が飛びついた。もう片手にはウサギの形にカットされたリンゴを刺したフォークが握られている。 それに横目をやった悠は、それから相も変わらず枕元に山詰みのままのリンゴに視線を向けてため息をついた。 「……飲み物はともかく、リンゴはこんなにいらないけど。……そもそも、これ買ってきたのは誰?」 「ああ、俺俺。ほら、前にねーちゃんのお使いでお前と買い物した事ある、商店街の青果店でさ」 「……私、こんなに食べないけど」 「そうか? 実は今日の朝、あの青果店のにーちゃんにお前の事を話したら、リンゴは医者いらずだいっぱい食え食えって、これ全部タダでくれたんだぜ? まあ傷みかけてるから早めに食えよとも言われたけどな」 「それ、単に売れ残りを押し付けられただけだと思うけど」 光輝が相方の冷ややかな視線にさらされていると、背後の扉が開いた。 「津堂さーん、そろそろ検査のお時間でーす」 看護婦さんが顔を覗かせ、三人の見舞い客に業務用の笑顔を振りまいてから引っ込んだ。 「検査……? やっぱお前、なんか大変な事になってるんじゃ……?」 どこか面倒そうにベッドから降りスリッパに履き替えている彼女に、光輝が心配そうに訊く。 「別に大した事じゃない。ただの問診と精密検査。今日の夜には結論が出るみたいだけど」 それから彼女は扉の取っ手に手をかけ、そこで思い出したようにこう言った。 「それなりに時間かかるから、今日はもう帰って。結果は後で電話するから」 「さて、あたしたちがやるべき事は一つ!」 いつもの建物の、いつもの場所。 協会支部の閑散とした待合室にて、葵がそう声を張り上げた。 室内にいるのは、病院から戻ってきたばかりの白斗たち三人と浮遊霊。 そして相変わらず受付にて手元の紙と睨めっこしている秋津さん。ただ、今回ばかりはその表情があまり優れないようにも見えた。 白斗が上司に視線を向けると、室内にいつもの便利屋業務に従事する集団がいない事を問われているとでも思ったのか、「ああ、悠ちゃんがこうなっちゃうと、ちょっとねー……」とでも言うかのように、どこかぎこちない笑顔を返してきた。 最後に、壁に寄り掛かって腕を組み、下を向いて何かを考え込んでいる面持ちの紫苑。 叫ぶ葵の声は確かにやかましいと言えばやかましいのだが、事態が事態でもあるためか彼は眉一つ動かそうとしなかった。 そんないつもの場所の、いつも通りのメンバー。 「悠が何も覚えてないって言うんなら、あたしたちがその代わりをやってやるのよ!」 再度、葵が吼えた。 「今から街中を回って、悠を襲った犯人を捜し出すの! それからギッタンギッタンにしてやるのよ! 悠に泣きながら土下座するまで許してやらないんだから!」 「ああ! 例えアイツが何も覚えてなくても、きっとどこかに目撃者もいるはずだしな、まずは聞き込みからだ!」 『……細部はともかく、見回りをするのは私も賛成だ』 気勢を上げる二人に、普段のため息よりも幾分小さくクレアが息を吐いた。 『だが、あまり危険な事には首を突っ込むなよ。ともすればお前が……』 「そんな事言ってらんないわよ! このまま放っておくとまたあの子が襲われちゃうかもしれないじゃない!」 『言っても聞くような奴じゃなかったな、お前は。……でも、まあ安心しろ。危ない時はどんな時でも、私が守ってやる。それに……』 それくらいしか出来ないからな、とクレアが小さい言葉でつぶやいたのを白斗は聞き逃さなかった。 「え? 何か言った?」 『いや、私のただの独り言だ、気にするな』 そのまま光輝と葵の二人が拳を振り上げている間、ふと受付の秋津さんが小声で手招きをした。 「ねぇ、くーちゃん(・・・・・)、ちょっと話があるの」 『……? どうした』 白斗が知る限り、秋津さんがクレアの事をそう呼ぶ事は滅多に無かった。 そう、余程重要な要件でない場合は。 そのまま受付まで浮遊していった彼女に、先ほどまで自身が目を通していた紙を見せる秋津さん。 『……!』 すると、クレアの顔色があっという間に変わっていく。 「え? なになに?」 そこで葵がクレアの様子に気づいて受付に身を乗り出し、自分も同じく紙を覗き込もうとする。 「んー、葵ちゃんはダーメ。大事な機密の書類だからねー」 が、秋津さんに額を人差し指ではじかれて押し留められた。 「……? まあいいけど」 不可解そうな顔をしながらも、すぐに興味を失ったのか受付から離れていく。 そして彼女は、人差し指を上げて宣言した。 「さぁ、悠を襲った犯人をあたし達で見つけ出すのよ! 証拠と証言を念入りに洗い出す! それが探偵の基本だって、この前学校の廊下で友達が話してるの聞いたんだから!」 だが。 『……』 彼女は何か信じられないものを見たかのような面持ちで、ただ秋津さんが提示した紙を見つめていた。 「クレア?」 そこで彼女はふと我に返ったかのように、軽く頭を振った。 『……ああ、そうだな』 何故か気乗りしなさそうに小さくつぶやき、葵のそばまで戻る。 「ま、何にしろとっとと行こうぜ! 善は急げだ!」 そして葵と光輝が連れだって部屋を飛び出していき、その後をため息もつかずに幽霊が追いかけていく。 静寂が戻ってきた室内には白斗と秋津さん、そして紫苑だけが残された。 「お前、実はかなり怒っているだろう?」 珍しく真顔で腕を組み、ただ虚空を見つめている紫苑に白斗が近づいた途端、彼は開口一番にこう言った。 「……。別にそんな事は――」 「動きに落ち着きが無い。見ていれば分かる」 それから彼は、視線を少しだけ上に向けて息を吐いた。 「アイツの事が気になるか。……まあそうだろうな」 「……」 「心配するな。アイツはすぐに戻ってくる」 そこで、アイツというのが悠を指している事に気付いた。 そしてその口ぶりが、こちらを励まそうと気休めを言っているのではないという事も。 「……何か知っているのか」 「さぁな」 そこで相手はやっと口の端にわずかな笑みを浮かべた。 どこか思わせぶりな口調の彼に、白斗は言う。 「何か知っているのであれば、何でもいい、教えてくれ」 「断る、と言いたいところだが、それでは引き下がらないのだろう?」 「ああ。場合によっては……」 テーブルの上に置かれた自身の荷物の中に紛れた木刀に視線を向けると、相手の口元に浮かんだ笑みがより一層強くなる。 「何にしろ、俺からは詳しい事は言えん。だが……」 そこで彼は一瞬だけ何かを考え込む色を見せ、すぐに口を開いた。 「そうだな、あえて言うならば――」 紫苑の言葉に重なるように、頭上の時計が四時ちょうどを告げる鐘の音を鳴らした。 今しがたの彼の言葉に、白斗は反論する。 「あんな時間帯に、あんな場所で、悠が一人で向かっていって、そこで勝手に風邪で倒れたとでも?」 だが彼はそれには答えずに、背を向けた。 「俺から言える事は、それだけだ。いいか、忠告だ。この件には首を突っ込むな」 「……?」 そして彼は白斗の困惑を振り切るかのように、そのまま出入り口からどこかへと消えてしまった。 午後四時過ぎ。春と呼ぶ時期を少しだけ過ぎた風が、建物の外に出た光輝と葵を包んでは通り抜けていく。 「おっし! とりあえずはアイツが倒れてた公園に向かってみようぜ!」 「もちろん! でも、手がかりを探す人数は多いに越したことはないわね」 そう言って、彼女は周囲を見回した。 光輝も習って同じようにするが、目に付くのは何かを考え込みながらゆっくりと背後の階段を降りてくるクレアの姿のみ。 彼女の表情が先ほどから一向に優れないものの、光輝は大して気にも留めなかった。それよりも、今は自身の相方を襲撃した犯人を見つけ出す事の方が先決だった。 「手伝ってくれる奴? まあいるっちゃいるけど、学校の奴らは駄目だろ? アイツがぶっ倒れたってウワサになるとマズいだろうしなぁ」 ふと彼の脳裏に、シガレットチョコを加えた人物を初め、数人の友人の顔が浮かんでいた。 「そんなのあたしだって分かってる。だから他人に話す事も無いような奴を呼ぶのよ」 そして葵は指をパチンと鳴らそうとし――スカッとしか音が出なかったが――それでももう片手を宙に掲げて宣言した。 「出てきなさい、ソウルジャグラー」 だが。 数秒経っても、周囲のどこにも何も現れない。 「って、それ、前にお前が会ったっていう……えーと、魔人、だっけ?」 光輝は頭をかきながら胡散臭そうに訊くが、眼前の相手はそれを無視して不機嫌に手を叩いた。 「来なさい、魔人!」 そのままさらに十数秒が経過し、目の前の路地を通ったサラリーマンが二人を不審な目で見つめては足早に去っていった。 「なぁ、その魔人って本当なのかよ? お前騙されてるんじゃ……」 「出てきなさいよ魔人! 『力が足りない』!! あたしの許可も無く勝手にバックれてるんじゃないわよ! もうゴールデンウィークは終わってるのよ!!」 むきぃと地団太を踏みながら叫んでも、一向にその『魔人』が現れ出てくる気配は無かった。 「もう何なのよ……。悠は倒れて病院だし、この前のタマちゃん探しではロクにお金もらえないし、最近はもう散々……」 と。 「やぁ二人とも。何か困りごとッスか?」 いつの間にか真横に、一人の男性が立っていた。 性別が男である事だけは分かる。だがしかし、その年齢ははっきりとしない。二十代であるようにも、六十代であるようにも見えた。 「何よアンタ。便利屋のお仕事頼みに来たの? 悪いけど今は取り込み中だから、その話はまた今度出直して来てちょうだい」 葵が不機嫌そうにそう言うが、相手は飄々(ひょうひょう)とした笑みを崩さずに、何が楽しいのかカラカラと笑う。それでいて、目元の濃いサングラスのせいで瞳の奥の表情は読み取れない。 「……あ」 ふとそこで、光輝が唐突に手を打った。 「この人、確かゴールデンウィークの初日、買い物帰りにお前と出会った日の夕方にねーちゃんと話してた。ほら、下の喫茶店で」 隣に立つ葵に、そっと耳打ちする。 「ああ、あたしがタマちゃん捕まえてきたあの時ね……」 だがその会話が聞こえたのか、相手は面白そうに笑いながら自身の頭を叩いた。 「ああ、あの時は保護対象、の話をしてたンスよ」 「保護対象……って、タマちゃん? でもあれはちゃんとオバサンが引き取って……」 「いや、そっちじゃないンスよ」 笑みを消さないまま、静かにかぶりを振る。 「まあとにかく、秋津さんに伝えておいてほしいッス。僕は気にしてないから今まで通りによろしく頼むッス、って」 「……?」 「じゃ、僕は用事があるのでこの辺でおさらばッス。君たちもお元気でー」 カラカラと笑い、後ろ手を振りながら去っていく。 「……何よ、あの人。わけ分かんない。クレアもそう思うでしょ?」 全く訳が分からないと言うかのように、葵が息を吐いて背後を振り返った。 するとそこには、先ほどまでとはまた別の意味で顔色が優れない幽霊の姿があった。 『……。あの男、去り際に私の事を見ていたような……?』 「え……?」 『いや……多分気のせいだろう。……すまない、先ほどから少し気が動転していてな』 「ねぇ、さっき一体何を見せられたのよ?」 だが幽霊はそれには答えず、静かにかぶりを振った。 『後で話す。悪いが今は……どうしても答えられない』 「答えられないって、ねーちゃんに口止めでもされてるのかよ?」 『……』 そこで葵が手を叩いた。 「ま、別にいいわよ。どうしても話したくないってなら、無理には聞かない。だってアンタを信じてるんだもの」 そして彼女はニカッと笑い、こう言った。 「それよりも、今あたしたちがやるべき事はあの子を襲った犯人を見つける事。そうでしょ?」 『……ああ、そうだな』 学校方面の公園へと向けて走り出した葵に、幾分落ち着きを取り戻したクレア、そして怪訝な顔をした光輝が付いていった。 そして、それから数時間後。 「……あれ」 ソファに座ったまま眠りに落ちていた白斗は、出入り口の扉が押し開けられる音で目が覚めた。 あの深夜に悠を背負って病院まで向かってからというものずっと起きて彼女の様子を見守っていたため、どうやらここに来て寝不足のツケがやってきたらしい。 「ただいまー……」 出入り口の扉を押し開けた葵が、そのままふらふらとした足取りでソファに倒れ込んだ。 そしてその背後に続く、疲労の色を隠し切れない光輝とクレア。 『……収穫ゼロだ。あの穴ぼこ以外何も見つからず、証言も何も無かった』 何故か秋津さんの方をチラチラと確認しながら、そう告げる。 「おっかしいよなぁ……それらしい不審者を見かけたって話も、深夜にアイツの悲鳴聞いたって人もいなかったんだぜ? ……まあ悠さんはキャーとか言わないだろうけどさ」 ふとその時、テーブルの上に置かれた白斗の携帯電話が振動した。 画面表示を全員で覗き込む。悠からの電話だった。 「貸して!」 すかさず葵が白斗の手から携帯電話を奪い取り、通話ボタンを押した。 『もしもし。病院の検査結果が出たから――』 「悠! どうなの!? もしや末期ガンとか白血病とか椎間板ヘルニア性急性アルコール心筋デストロイヤー症候群とかって言われたわけじゃないわよね!?」 『私、兄さんにかけたつもりだったけど』 電話の奥から小さく息を吐く音が聞こえ、それから言葉が続けられる。 葵の声の残響だけが響く室内で、全員が会話内容に耳を澄ませていた。 『原因が分からない、って言われた』 「……へ?」 見ると、葵だけでなく光輝もあっけにとられたような表情を浮かべていた。 おそらく自分も同じような顔をしているのだろうと白斗は思った。 『風邪でも何でもない、完全に健康体。少し粗食気味な事以外にどこにも異常は見当たらない、って。だから明日の午後には退院出来そう』 みんなにそう伝えておいて、とだけ言い、通話は切れた。 「何なのあの病院! ヤブ医者だらけじゃない!! 医者の免許取り上げなさいよ!」 携帯電話を白斗に押し付けるようにして返すと同時に、葵が叫んだ。 「アイツが健康……? 見つけた時はどう見ても熱あったのに……?」 やはり心底納得出来なさそうに、光輝が憮然(ぶぜん)とした面持ちを浮かべている。 「……」 そして白斗の頭の中では、先ほどの紫苑の言葉がいつまでも尾を引いていた。 その日の夜。 「津堂さーん、明かり消しますねー。何かありましたらナースコールお願いしまーす」 やたらと笑みを浮かべた看護婦が、個室の照明のスイッチを押して扉を閉めた。 暗闇の中ベッドで横になった悠は、毛布を胸の辺りまで引き上げて目を閉じる。 だがいくら待っても眠気はやって来ず、むしろどんどんと目が冴えていく。 「……」 起き上がり、何をするわけでもなくただ病室内で目を凝らす。そこでようやく目が暗闇に慣れてきた。 数時間前の検査の後、心理面のカウンセリングや入院の延長なども勧められはしたけれども、それら全ての言葉を「結構です」の一言で断ってきた。 そんな先ほどの出来事を思い返しつつ、身を起こした状態で悠は小さく息を吐いた。 眠れない原因は分かっている。自身がここに来る原因となった出来事だ。 「……」 全く何も覚えていないと周囲には言うものの、実は二つだけうっすらと残っている記憶があった。 それは、あの夜に感じた感情と、おぼろげなイメージ。二つのパズルのピース。 「……」 まず、あの時に何か強い感情を感じた記憶がぼんやりと残っていた。 具体的には思い出せないけれども、とにかく強い感情。 何者かに襲われたのだから、きっと恐怖なのだろうと思った。 そんな強いショックがあったからこそ、このようにほぼ何も覚えていないのだろうと。 だが、その何者かに対して怯えたり泣き叫んだりする自分自身の姿がどうしても想像できず、悠は目を閉じた。 そしてもう一つ―― 「……手、だった、と思う」 思わずポツリとつぶやいた。 霞む視界の中、倒れこんだ自分に手を伸ばしてくる何者かの姿。 だが、その後に何をされたのかについては記憶が途切れている。 危害を加えられたわけでも、身体をまさぐられたわけでも、何かを盗られたわけでもない。 そして最後に。 「確か、この中に……」 枕元の小物入れまで手を伸ばし、その中からとあるものを取り出した。 あの時自身が握りしめていたという、謎のロケットペンダント。 「……」 何度もひっくり返してはみるものの、一向に記憶は動こうとしない。 見覚えがある気もするし、無い気もする。 自身を襲撃した相手から奪い取った物なのだろうか? 自身に問うても、一向に答えは出なかった。 どこか薄汚れているその蓋を開けても、中には見覚えのない猫の写真しか入っていない。 ふと枕元の時計を見ると、ちょうど日をまたいだところだった。 ちょうど一日前、一体何があった? 自分は何をされてあの場に倒れていた? 「……」 はっきりとしないモヤのようなものが、いつまでも悠の頭の中に渦を巻いていた。